私たち小川屋味噌店は、世界の、日本の歴史が動き出した嘉永元年に創業し、和食文化の原点ともいえる”麹の魅力”を小川屋独自の技術で追究してきました。

いつの時代のお客様にも「麹をつかった食品は”おいしい”」と言って頂けるように、これからもより高い発酵技術とより良い品質・味を追究して、素材がもつ自然なうまみを引き出して商品づくりをいたします。

禅の教えと共に…

金山寺みそは一二五四年の鎌倉時代に、禅の修行のため宋の国(中国江蘇省)へ渡った僧侶覚心(かくしん)によって、日本に伝えられたと言われています。覚心和尚は、紀州由良(和歌山県日高郡)に興国寺を開山し、その教えと共にその地に金山寺味噌の製法が広まりました。

房州(千葉県)と紀州は海路による交流が盛んで一六00年代からは移住者も多くあったようです。「白浜」「勝浦」など今も残る共通の地名も見受けられ、黒潮に乗ってさまざまな文化の交流があったのではないでしょうか。

金山寺みそやそのタレを使った醤油も、紀伊半島と気候風土が良く似ている房総半島でも造られるようになり、庶民の食文化として育まれて来たようです。

江戸でのひろがり

金山寺みそが江戸で広まったのは一七00年代。八代将軍 徳川吉宗の時代に紀州徳川家から幕府へ献上されたという説もあります。その後、江戸庶民の食卓にも広まったようで、質素倹約で知られる幕末の指導者 吉田松陰は「金山寺みそ」を好んで食したという記録が残っています。故郷(萩)の公費で江戸へ遊学中、「金山寺みそ」「茄子漬」「梅干」などで質素な食事を摂り、書物に費用を回していたのだそうです。松陰の「費用禄」という金銭出納帳には「八文(現在の130円位) 金山寺」と記されています。

黒船の時代より

小川屋の祖先が糀屋を創業したのは江戸末期、黒船来航5年前の一八四八年(嘉永元年)のことでした。糀屋から醸造業へ道を広げ、その後金山寺みその製造を手がけるようになりました。

当地東金市には、徳川家康が鷹狩りに訪れたとされる史実があり、その際滞在した「東金御殿」という、いわば別荘のような御殿が建てられていました。現在は県立東金高等学校となっており、残念ながら当時の面影はありません。その御殿の表門付近に当店の発祥地があり、かつてはその門の名前をいただき、屋号を「大手屋(おおてや)」と称していました。

まっすぐに正直に商品づくりをする。その商品を通して価値体験を通して、麹が持つ「本来の魅力と新しい魅力」を私たちがお客様にお届けする。

私たちは、これからも創業時と同じように歴史を動かす、新しい味づくりに挑戦し続けます。